天才は非常識(私の好きな人は…)

奇才、天才と言われる人たちとは
やはり変人で非常識であることと紙一重だと思います。


紙一重というか一つなんですね。


理性や常識、情や義理よりも
自分の欲望を頼りに
そちらに向かって真っ直ぐであり


それが作品として表現された場合は
ぞくぞくしたり
感動したり
興奮したり
かっこいいと歓喜もするのだけど


日常を共に過ごす人は大変だろうなぁ。



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そういう凄いと言われる人に
安易に知り合いになりたいと
近付いてみたところで


お友だちになんて
なれないのではと思う。


彼らの眼中に奇抜な人以外は
ないのでせいぜいお客さん(その時たまたまその場に居合わせた人)。


だから作品には惹かれても
その人間性には危うさと不安定さしか
感じられず空しいのです。


またねと言って会えるのは
自分が出向いて行くときだけでしょう。


そういう人に人生を捧げるのも
生き甲斐という意味ではありかもしれない。


だけど私はどうにもこうにも
空しくてあまり関わりたくないのです。


一方的な関係というのが
だめなんですね。


なので追っかけみたいなことも
長くはできないし
そういう意味での一途さが皆無なのです。


そのせいで飽きっぽいとか
裏切ったみたいな
言われ方をすることもあります。


なのでイベント等
何かするので絶対来てね
みたいのはなぜ?としか思えない。


気になってるなら
自分で調べて行くし
良かったらという感じだとしても
その人の何かが自分の貴重な休養を削って行く価値があると感じなければ行けない、


というくらい付き合いで…
ということをしたくない。

逆に好きならば別に影からそっと
覗くだけだとしても行きます。


そう考えると人生捨てきりとか
見返りがなくても捧げる
という覚悟がないのかもしれない
と悩んでみたりもします。


そんなことで悩むのには
自分の中に


「人に一心に尽くさなければならない」

という思いがどこかにあるからなのです。

でもそもそも、そういう覚悟って
果たして必要なのでしょうか…?


仕事とか結婚とか
ある程度覚悟がないとできない
と思います。


先に述べたように
私には物事に対していたずらに覚悟できないものがあるのですが、覚悟して人に裏切られてそれで良かったとは到底思えなかった経験が何度かあるからなんですね。


優しい人、尽くす人は
利用されるし、なめられるし、蔑まれることもあるんです。



そこからパブロフの犬のように
人に覚悟するみたいなのが
今度は極端に嫌になってしまった。


かなり手前でノーを突きつけられるようになりました。


結果、そこまで傷付けられることはなくなったし、そもそもやたらと人間関係を結ぶことが激減しました。


人に合わせてお金と時間を使うことの無意味さみたいなのを、痛感してきたのが大きいです。


でも尽く続けて報われることも、特に子育てや教育ではありそうだし、

別の境地に達することもあると思うので、全く否定はしません。



話がそれましたが…


結局のところ
私が求めるのは親密さで
これが内向的と言われる人の特徴だそうです。

それを今年知ることができて
ものすごく府に落ちました。

それで一人とだけ親密なら良いかと言うとそうでもなくて、親密なのは多くても全く苦ではない。


ただ親密さには定義があって
一方的に相手の愚痴や不満を聞くことではないし、相手のやりたいことにただ付き合うことでもない。

あくまでもお互いを尊重して
思いやれる関係であるということ。


そうなると付き合う人が激減するのは
仕方のないことかもしれません。


沢山の人と薄く広く付き合う喜びというのもあると思います。


その場合は誰にでもいつまでも
落胆させられたことを根に持つようでいてはできないことだし、それはそれで愛情深いんだなあと思います。



長くなりましたが
一番言いたかったのはこれです。


人間的に魅力的なのは
自己表現を最大限に近くやりながら
周囲の人への思いやりも忘れない人。


とてつもなく贅沢だけど
このバランス持ってる人が
好きです。



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